失われたコーヒー、まだ誰もその価値を見出していないコーヒーを探し求めて旅してきた。
いつしか人は僕をコーヒーハンターと呼ぶようになった...

コーヒー探訪記

2008年7月29日 ハワイ島コナ①

コナマラソン

久し振りにハワイ島コナを訪れた。去年の6月以来のコナだ。

去年は、日系三世のコーヒー精選業者ジョン・クニタケが発起人となって始めたコナマラソンに家族で参加した。かれこれ20年の付き合いになる親友というか身内のようなジョンは、コナの貧しいコーヒー農家に生まれ、若くして夢を抱いてアメリカ本土に渡って競馬の騎手になった。全米を転戦する生活を続け、数多くのレースを制覇したそうだ。少年時代、よそのコーヒー農園の収穫作業を手伝ったり、農閑期には、海抜450メートルのホルアロアの家から、海辺のカイルア・コナの町にあるスーパーKTAで働くために歩いて通ったと聞いたことがあるが、そういった経験も、彼が騎手として成功した足腰の強さにつながったのだろう。ちなみにKTAは、現在のキングカメハメハホテルのある辺りにあったそうだ。引退後はコナに戻り実家の荒れ果てたコーヒー農園に手を加え、チェリーの水洗工場を始めた。

ジョンとは僕がコナに赴任して間もなく、共通の知人を通して知り合ったが、その日からすっかりアミーゴになってしまった。一回り以上年上のジョンだが、子供のように無邪気な人で、また根っからの風来坊だ。彼の趣味はマラソン。騎手の時代、体重を増やさないようにマラソンを始めたそうだ。

そんなジョンが、13年前のある日、僕に頼みごとをしてきた。滅多に人に頼んだりせず、逆に何でも人のために引き受けてしまうようなジョンだからその時は驚いた。

実は、あまりに規模が小さすぎて、コナに住みコーヒーに関わっていながら不覚にも知らなかったのだが、3年前にジョンがコナコーヒー生産者を励まし、そしてコナの町の町おこしにもつながればと、コナコーヒーマラソンイベントを始めたそうだ。このイベントには、アメリカ陸上界の大御所で、ミュンヘンオリンピックのメダリスト、日本では福岡マラソン4連覇の偉業を果たしたフランク・ショーターが、ジョンと親交があり毎年参加してくれていた。しかし、資金が無いため告知もままならず、参加者も集まらない状態だった。 そこでジョンが、当時僕の勤務していたUCCにスポンサーになってくれないかと頼みにきたのだ。早速日本の社長に話したところ、即座に了解してくれた。

それから僕が、日本に帰国する2003年まで、毎年コナマラソンの準備をジョンと一緒にしてきた。世界でも屈指のトライアスロンのマラソンコースと同じ風光明媚な海岸線を走るコナマラソンは、日本ではあまり知られていないが、アメリカ本土では少しずつ有名になって、アメリカ白血病団体や心臓病団体が大挙して参加してくれるようになった。

ジョンが嬉しそうに、白血病団体が600人の申し込みをして来たと僕の事務所を訪ねて来た時には、病人が走って大丈夫かと思わず聞いてしまったが、その仕組みを聞いて、心臓病団体にしてもその後参加してくれたその他の団体にしても、アメリカの慈善事業は凄いと感心させられた。

参加者は、家族や親友が病気にかかっているというケースが多かったが、まったくマラソンを走ったことのない人々で、団体の資金集めのチャリティーのためにフルマラソンを走るのだ。つまり、自分がその苛酷な挑戦をするからと宣言し、一人目標5,000ドルの寄付を周囲の人達に集う。そして、その資金でコナまでの渡航費と宿泊代を賄い、団体から派遣されたトレーナーが、マラソンに向けて挑戦者のトレーニングを行い、その余剰金が団体の活動資金となって、基礎研究をする機関や大学に資金が提供されるという仕組みだ。

コナマラソンだからコナマラソンは、団体揃いのユニホームを着用するランナー達と、それを応援する家族で賑やかだ。それにトレーナー達が、オープンカーに分乗しレース全体を見守っている。見るからに運動とは縁のなさそうな中年女性や、歩くのも大変そうな太った男性がスタートしていく。それだけにゴールは感動的だ。病気で苦しむ家族の写真と、奇跡を望むメッセージを胸にはったランナーが、息絶え絶えでフラフラしながら入って来る。中には大会の前に亡くなってしまった患者の写真と、治療薬の開発を願うメッセージを下げて走っている人もいる。それをみんなが大声援で迎える。そんな光景が延々と続く。制限時間が無いのもコナマラソンの特徴だ。

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