
今年もいよいよ後数時間で終わろうとしています。
テレビでは紅白歌合戦を放送していますが、大晦日に紅白を見るなんて、未だに不思議な気がしてしまいます。
僕が、エル・サルバドルのコーヒー研究所で勉強していたのは、まだビデオも普及する前の1970年代中頃でした。もちろん、ファックスも無く唯一の海外との通信手段は、オペレーター経由で繋がる高額な国際電話か、テープに打ち込み送信するテレックスと言う時代です。日本のニュースは、1週間遅れの新聞を商社の事務所に寄って見せてもらうか、ラジオにしがみついて短波放送の海外向け番組を雑音の中から必死に聞くしかありませんでした。そんな時代ですから1975年1月にエル・サルバドルに着いた時は、この地で日本のテレビ番組など見ることなど予想もしていませんでした。
少しずつ街の様子も分かり始めた3月、日本大使館から巡回紅白歌合戦上映会のお知らせが届きました。大使館に問い合わせたら、海外に生活する在留邦人の為に16ミリのフィルムに編集した紅白歌合戦の上映会を開くとのことでした。僕は、日本を出る直前に紅白歌合戦を実家で見たので内容は知っていましたが、望郷の念で行くことにしました。まだ在留邦人が100人にも満たなかった当時のエル・サルバドルでは、大きなホールを借りずに分散して上映会を開催していたので、僕は独身者の多い協力隊での上映会に振り分けられていました。
バスに乗って、中流の住宅街にある協力隊の事務所に向かいながら、なぜ今頃、紅白歌合戦なのかと不思議に思いました。事務所と地方在住の隊員の宿泊施設を兼ねた一軒家の比較的大きなダイニングの壁に張った映写用のシーツに映し出された画面を見て、その訳が理解できました。このフィルムは、太平洋を越え全米各地の日本人会を巡回し、メキシコに南下してきます。ですから、中米のエル・サルバドルにフィルムが届くのは3月になってしまうのです。
何回も上映されたフィルムは、シーツの質や張り方に関わらず、映し出される画面には雨が降っていました。それでもみんな暗い部屋で真剣にシーツを見つめていました。一緒に口ずさむ人、流れる涙をそっと隠す人、それぞれの思いは違っても望郷の念は皆同じでした。僕も上映会の後、数日間はホームシックになったことを憶えています。
今でも紅白歌合戦を見る度に、エル・サルバドルの協力隊事務所を思い出します。その事務所も内戦の激化で隊員の一斉引き揚げと共に閉鎖されてしまいました。政府軍とゲリラと和平協定締結後、協力隊も隊員派遣を再開しましたが、現在の事務所は瀟洒な建物に移転しています。
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