失われたコーヒー、まだ誰もその価値を見出していないコーヒーを探し求めて旅してきた。
いつしか人は僕をコーヒーハンターと呼ぶようになった...

コーヒー探訪記

2008年7月15日 マダガスカル①

7月14日午後6時10分成田空港を発ち、バンコクまで約6時間半。そこからマダガスカル航空の深夜便に乗り換えて、レユニオン島経由でマダガスカルの首都アンタナナリブに15日午前8時に着いた。日本を出てから18時間の旅だった。

もう何回この島を訪れたことだろう。20回以上は来ている。年に最低2回は来ていたから、今回のように9か月振りというのは珍しい。

首都アンタナナリブ

この島固有のコーヒーでカフェインがほとんど無い絶滅危惧種“マスカロコフェア”を求めて、1999年8月に初めてこの島を訪れた時は、まだラチラカ独裁政権の社会主義の時代で、空港に到着しタラップを降りる時、初めて訪れる社会主義の国に緊張したのを覚えている。長年に渡り特定の国以外とは鎖国に近い状態だったため、空港も首都の町並みも時代から取り残されてしまった景色が続いていた。しかしマダガスカル人はとっても親切で平和な人々なので真夜中に町を歩いていても安全だった。

2001年の大統領選挙で政権が変わり、国が開放政策を取ったために、猛スピードで変化を遂げているが、未だに治安は良好で安全な国に変わりはない。ただし首都に物乞いが急増しているのには、心が痛む。

昨年から始まったJETRO日本貿易振興機構とのプロジェクトが、今回のマダガスカル訪問の目的だ。マダガスカルの中部東海岸の町マハヌルから奥地に45分程入ったマロチリリ(Marotsiriry)地区にあるキリスト教の修道院で、シスター達と一緒にコーヒーの試験栽培を始める。地元の人々がマロチリリ教会と呼んでいるこの修道院は、パリに本部のあるFilles de la Sagesse(ラ・サジェス女子修道会)が運営し、6人のマダガスカル人シスター達が働いていた。

修道院の建物は小さいが、教会の他、診療所、学校、木工場、農園が、敷地内に点在している。公立の医療設備の無いこの地方の人々は、かなり遠くからも歩いてこの診療所に診てもらいに来るそうだが、限りある設備と備品の中でシスター達が患者の面倒を熱心に見ているのに感動した。また隣接する農場では、稲作や果樹の試験栽培を行い地元農民達に指導している。昨年訪れた時には、木工場でシスターが青少年に椅子の作り方を教えていた。

1930年代にフランス人とマダガスカル人研究者が、高収量で品質の良いカネホラ種ロブスタ(ストレートの飲用に適さず、ブレンド・インスタントコーヒーに使われる品種)の品種改良をしていた。その中でコンジェンシスとロブスタの交配種コングスタ種ができあがり、農民たちはロブスタと併用して栽培を始めた。マダガスカルのコーヒーは、1968年に世界で始めて発売された缶コーヒーの主要原料として、日本に数多く輸入された。しかし1975年にラチラカ大統領が就任し、1978年には旧宗主国のフランス人を追い出して産業の国有化が始まった。ちょうど同時期に起きた世界的なコーヒー価格の暴落と相まって、この国のコーヒー産業は衰退してしまい、コングスタも忘れ去られてしまった。

マスカロコフェアの花の一種

マダガスカル原産の“マスカロコフェア”の調査をしている時に、偶然マダガスカル人研究者からこの品種の存在を教えてもらい興味を持った僕は、更にこの品種を調べてみた。するとまだ東海岸に木が残っていて、冠水(水害)に強い特徴を持っていることがわかった。残念ながら地元の農民達は、ロブスタとコングスタの違いも知らされないまま栽培を続けていた。しかし30年のコーヒー産業の空白の時間は大きく、彼らの生産するコーヒーは、とても国際市場に出せる代物ではなかった。

そこで開発から取り残された東海岸の村落に、コングスタ栽培で自活できる道をつくろうとJETROとプロジェクトを立ち上げた。

2008年7月16日 マダガスカル② »

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